わたしが発達障害(ADHDグレー)と発覚するまでの長い道のりを綴っております。
ADHDの子を持つ保護者の方にとって、我が子の苦悩を理解する参考になれば幸いです。
とはいっても、ただの雑記ですので興味のない方はスルーして下さいね笑
「その2」では中学校時代から浪人時代までの話をしていきます。
我はロボット!? ー中学校〜高校時代ー
小学生の時、周りとは少し違うなと自覚はしていたので、クラスで浮かないように自分のやりたいことや考えを抑えて周りと合わせる努力をしていました。
あらゆることを抑え込んだ結果、中学生になる頃には自分では何も感じない、考えられないロボットになっていました。
言われたことを忠実にこなしていれば、問題ないでしょ!
勉強にしろ、委員会活動にしろ、イベントにしろ、そんな態度でした。
一方、感情面では外部からの入力(周りの雰囲気)に対して、”普通の人”が取るであろう出力(表情)を行なっているつもりでしたが、どうもぎこちない・・・
喜怒哀楽が全くなかった訳ではありません。周囲の人より圧倒的に感情の振れ幅が狭かったのです。周りから見たらほぼ無表情に見えたことでしょう。加えて口数も少なかったため、中学校の担任の先生から「何を考えているか分からないから、見ていてイライラする」とまで言われた事があります。
話は変わりますが、集団において、特異な存在は排除の的にされ易いように感じています。島国気質のある日本では特にその傾向が強いかもしれません(海外事情はわかりませんが・・・)。わたしは生まれながらに排除される側の特質を持っていました。
<排除される特質>
・ADHD気質(人口の割合10%程度)
→言動がズレており、周りから陰口を叩かれる。
・AB型の性格(人口の割合9%)
→考え方がぶっ飛んでいるため、周りから浮いている。
・先天性遺伝病(人口の割合0.03%程度)
→外観にその病症が出現するため、周りから後ろ指を刺される。
見事にトリプル・コンボ炸裂!!!
ここまで来ると、ある意味で自分を特別な存在として感じてしまう。
変な選民意識に目覚めても仕方ないですよね笑
ギフケン伝説④:ご利益編
高校の時、超絶無口な生徒でした。そんな折に同学年の女子生徒の間で、「ギフケンから声を掛けられたその日はいいことある」と言う噂が一時期流行りました。何とか声を掛けられようと色々策を練るのが楽しかったようです笑
誤解のないよう付け加えますが、クラスから嫌われていた訳ではありません。
わたしの言動が浮いていただけで、周りは個性として理解はしてくれていました。
1点集中!? ー浪人時代ー
どうしても学びたい学問がありましたが、現役ではその夢叶わず・・・・
ということこで浪人生活を送りました。
<浪人に至った主な原因>
・具体的な計画が立てられなかった。
・現状分析をしっかりやらなかった。
現役の頃は気の赴くままに問題を解いて終わっているだけでした笑
これもADHD気質なのでしょう・・・
浪人時代ほど勉強に専念して過ごした月日は後にも先にも我が人生において他にありません。
元々勉強すること自体は嫌いではなかったので、楽しみながら日々を送っていました。
予備校で出会った物理の先生の影響でその後の勉強の仕方が大きく変わります。
「公式は分かっている人が使うもの」を徹底する方で、初学者のうちは毎度原点に立ち返り公式導出からしておりました。とても面倒で時間のかかる作業ですが、後々この作業が効いてきます。難関大の問題を目の当たりにしても、出題者の意図がある程度が見えてくるようになるのです。
問題の本質を掴むと言うのはこのことを言うのだと実感しました。
現役の時に妥協して他大学へ入学を決めていたら、得られなかった感覚です。
そして、志望大学の合格を手にする事ができました。
<余談>
わたし自身は合格祈願のため神社へのお詣りには行きませんでした。
往復の時間、境内での待ち時間、人混み接触による感染リスクを考えて避けました。
家で勉強したり、体を休めたりしていた方が効果的と思ったからです。
何より合格定員が決まっている以上、合格を祈願することは他人が落ちることを望んでいるように感じていて、複雑な心境があったこともあります。
ここまでの道のりでは、自分が周りの人とズレていると感じながらもADHDであることにまだ気付いていません笑 客観的に自己分析するのって難しいですよね〜〜〜
さあ、ここからが人生の転機が訪れます!
続きはその3へどうぞ♪